2012年6月1日
ライフサポート協会 常務理事 村田 進
最近、吉本興業の人気お笑いタレントの母親が生活保護を受けていたことを、実名入りで攻撃する記事が週刊誌に出ていました。マスコミばかりでなく、自民党の国会議員もテレビ番組やブログでこれを取り上げ、「けしからん!」と糾弾し、タレント本人は謝罪会見を開くし、厚生労働大臣は「生活保護基準の引き下げや扶養義務の厳格適用」を表明するに至っています。
このタレントのケースをどうこう言う気はありませんが、騒ぎに乗じての厚生労働大臣の表明はどうなんでしょうか?マスコミも含めて品位の低さを感じます。
「家族の扶養義務」と「調査権限強化」を求める声が高まるとき、確実に生活保護受給規制への圧力が強まります。疎遠になった家族にまで迷惑がかかると思うと、保護の申請をためらったり、自治体窓口で申請受理を断る口実に使われかねません。ただでさえ、生活保護の受給制限で餓死事件などの悲劇が後を絶たない状況があり、また、国の生活保護枠の抑制指導と、困窮する市民の現実との狭間に立った自治体からは、生活保護制度の抜本的改革を求める声があがっています。にもかかわらず、制度の責任者たる厚生労働大臣が、世論に迎合する形で単純に規制強化を表明する無責任さに、開いた口が塞がりません。
日本社会は、長年に渡り福祉制度の未整備を「家族による支え」に押し付けながら放置してきました。それは「日本型福祉社会」と言われ、高度経済成長を通じて、「企業」と「家族」による福祉を主流として、そこからこぼれた人々を最低限の措置によって保障してきました。つい10数年前の介護保険制度の導入時でも、「家族の美風が損なわれる」と強硬に反対した自民党の有力国会議員がいたほどです。そんな日本社会の中に、「家族による福祉」への幻想が未だ根強く残っているのは確かです。
しかし、少子高齢社会に突入した日本社会が、「企業」と「家族」による福祉で問題を解決できなくなっていることは、もはや常識です。バブル崩壊以後の長期不況の下、「終身雇用」に守られた企業福祉は失われ、派遣労働導入の自由化による不安定雇用が低賃金格差社会を生み出しました。「家族福祉」はもっと早い段階から「核家族化」が進行し、「共働き」が増加する中、機能しえない状態です。この間の社会保障制度の拡充は、このような社会情勢の変化に対応して進められてきましたが、団塊の世代が後期高齢者に突入する2025年の超高齢社会を前に、制度の拡充とそのための財源確保が避けられないとして、次々と改革案が提案されています。
自民党政権時代の社会保障国民会議(2008年11月)は「必要なサービスを保障し、国民の安心と安全を確保するための社会保障の機能強化」を重点課題としており、民主党政権がまとめた「社会保障・税一体改革素案」(2012年1月)は「社会保障の機能強化を確実に実施するとともに社会保障全体の持続可能性の確保を図ることにより、全世代を通じた国民生活の安心を確保する「全世代対応型」社会保障制度の構築を目指す」としており、いずれも、社会保障の強化再構築を緊急の課題としています。
社会的格差が拡がり、時代の閉塞感が日本を覆っている中、「こんなに頑張っているのに、不正に甘い汁を吸うやつは許せない!」という怒りが、様々な「犯人さがし」に向けられています。問題の中身を冷静に考えて、課題を提起すべきマスコミや国会議員までが、苛立った市民感情に迎合する形で、センセーショナルに問題をあおるばかりか、「犯人を罰する正義の味方」になろうとしていることに、大いなる違和感を持ちます。(生活保護の不正受給を追求するマスコミは、かつて、餓死事件では「受給申請を抑制した」と自治体職員が悪魔であるかのように批判していました。)
社会保障は、そもそも個人(家族)の力では解決できない困難を、社会的に、すなわち国民みんなの助け合いで、税金や保険制度を使って解決していこうというものです。どんな人にも守られるべき尊厳があること前提に、他者をいたわるという自然な人間的感情を背景に、長い厳しい歴史の中で人類が勝ち取ってきた「英知」です。
エゴイスティックな感情が、冷静な議論と判断を阻んでしまう昨今の風潮に、どう対抗していくか、社会福祉に関わる立場からの発信が課題だと思います。