2014年6月17日
ライフサポート協会 常務理事 村田 進
2014年6月9日、朝日新聞(夕刊)の一面に「問題児童・生徒を隔離へ」の見出しで、大阪市教育員会による「特別教室」での指導案がスクープされた。 市教委が昨年9月に策定した問題行動例の5つのレベル(右表参照)のうち、「レベル4」と「レベル5」に該当する場合、「特別教室」で指導するというもの。
定例記者会見で橋下市長は、この方針案について以下のように見解を述べた。
(1)「問題生徒」への対応は、現行法では「出席停止」となっており、結局は親の監護に任せる状態でしかない。また、非行少年や学校で受け入れにくい生徒は、いきなり「自立支援施設・鑑別所・少年院」等での対応となって、生徒への指導の仕組みがない。
(2)一方で、学校教員が抱えるにはあまりに負担が大きく、疲弊してきていること、学級崩壊などで真面目に学ぼうという生徒にしわ寄せがきている。よって、問題生徒に対し専門家を中心にしっかり指導できる体制を別につくろうというものだと、教育委員会の案を支持している。
一方、マスコミによると「実現すれば授業の実施に集中できるようになる」という学校現場の声がある一方で、「レッテル貼りにつながる」との懸念や、「自発的に特別教室に通い続けるとは考えにくい」と実現性への疑問の声も上がっているという。「問題のある生徒のせいで真面目な生徒がばかを見ることは絶対にあってはならない」という橋下市長の発言が、単純に「問題生徒の隔離」という風に誤解されている面もあるが、この問題は冷静に多面的に捉えて取り組むべき課題ではないかと考える。
問題の背景には、橋下市長も指摘するように混乱する学校現場の実態があるのは間違いない。競争原理が強化され、社会的格差や孤立化が進行する日本社会において、そのしわ寄せは子ども達の世界に大きな影を落としている。「ゆとり教育」によって学力低下した日本の教育を再生させるとして、橋下市長は先頭に立って伸びる子に重点化した効率的教育の推進に取り組んできた。学力テストの公開、学校選択制の導入、公募校長の採用等がそれである。競争についていけない「問題生徒」は、当然のごとく学校の「お荷物」となり、「真面目な生徒」にとって「迷惑な存在」として孤立化していく。教員の疲弊を防ぐためにも、そして「問題生徒自身のためにも」専門的指導を「個別指導教室」で行うというのである。
教育のあり方については多様な見解が存在するが、ここで橋下市長の教育政策を批判したり、学校や行政の責任を問題にするのではなく、この問題を多面的な視点で冷静考えてみたい。
「問題生徒」とその家族の抱えている問題はどこにあるのか、その打開策を本人と家族という当事者が理解し、彼ら自身が取り組まない限り、問題の解決は不可能であるという基本的な点を押さえる必要がある。「問題生徒」の抱えている困難は、学力問題以前の生育歴の中で培われ、また現在も厳しい生活環境の中におかれ続けていることの結果に過ぎないことが予想される。そこでは専門家による指導と援助が意味をもってくるが、「指導教室」の中でできることは限られており、本人をとりまく家族等の環境に対する働きかけや援助も同時に行わなければ成果を上げることは困難であろう。
「問題生徒」は確かに平穏な学校生活を乱す存在であり、分離指導を求めたくなる気持ちは理解できる。しかし一方で、「問題生徒」も自分達と同じ地域で暮らす子どもであり、様々な困難を抱えて平穏な暮らしが出来なくなっている子どもであることも事実である。地域には様々な人が多様な生活を営んでいる。社会の中の一つのルールについていけなくなったら地域から排除されてしまうというのはどうであろうか? 例えば認知症が進んだり、障害を抱えた住民が、「社会的常識」というルールから外れた行動をとってしまったら、地域から離れて暮らさねばならないとなれば、なんと息苦しい社会であろうか。
困っている人に心を寄せることができるか、自分とは違う多様な生活を理解することができるかということは、極めて教育的課題であり、その力をもった子どもたちによって、新しい豊かな社会が開かれていくのではないだろうか。
学校や行政が「問題生徒」に対してどのような認識で関わるかが問われている。学校の中だけで、教員だけで管理していくことを目的とするなら、「力」に頼る体罰指導や、その反動としての学級崩壊、そして心身ともに疲弊した教員人材の喪失が待っている。
問題行動の背後にある本人の課題をしっかり踏まえた上で、本人と家族等にどう働きかけていくかを決めなければならない。当然、教室を越えた関わりが必要で、教育機関における専門的な指導や援助は当然として、本人をとりまく家族や地域での課題に一緒に取り組んでもらえるような地域住民への働きかけが不可欠である。本人支援ではスクール・ソシャルワーカーの巡回相談も実施されているが、家族や地域への援助に重点を置いた新たな体制強化が必要ではないだろうか。
「授業にならない状態を放置するのか!」「彼にも人権があるではないか!」など、ともすれば感情的な議論が先行してしまい、冷静に問題を考えることが見過ごされがちになる。
本人、関係者、支援機関の3つの視点を考えてみたが、何より重要なことは問題の当事者である本人の実態についてしっかりと迫ることである。いまだ義務教育の渦中にある将来を担いうる子どもを、陥っている困難から抜け出せるように援助することは本来の教育的取り組みであり、それを学校の独占事業から地域の様々な住民のかかわる社会的事業へと発展させることこそが今日の教育に求められている点ではないだろうか。