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コラム「夢を抱いて」

あらためて「自助」を考える

2019年6月10日

ライフサポート協会 理事長 村田 進

 ここ数年、ノーベル医学・生理学賞の日本人による受賞が続いています

 2012年に同賞を受賞した山中伸弥さんの「ヒトIPS細胞」の樹立、2016年の大隅良典さんの細胞再生の「オートファジー」現象の解明、昨年受賞した本庶佑(ほんじょたすく)さんの免疫抑制タンパク「PD-1」の発見などです。

 これらの研究と発見が受賞したことは、今日の医療のあり方が大きく変化していることを示しています。PD-1の機能を抑制するオプジーボ等を活用した「免疫療法」やIPS細胞を活用した「再生医療や細胞治療」など、本来、人間の持つ自己再生能力を活性化させることで、病気に対抗していこうというものです。

 患部を切り取る外科的治療や大量の薬で病原を抑え込む治療では、患者にとって多くの副作用や社会生活に制限が伴ってきました。「遺伝子治療」を含むいま模索されている新たな治療法は、その人の特性に合わせ、その人自身の力を活用した高い効果が見込まれるものと期待されています。

 根源には、人間が本来持つ生命維持能力への着目と可能性への確信が広がっています。

 ひるがえって、私たち社会福祉の世界はどうでしょうか?

 社会福祉のあり方をめぐって、これまで「自助」「共助」「公助」という区分けで議論され、自分で頑張る「自助」と互いに助け合う「共助」、公的な社会制度で助ける「公助」と、それぞれの役割が強調されてきました。

 元々、社会福祉の制度がない時代では「自助」しかなく、せいぜい隣近所や篤志家の慈善による「共助」があっただけでした。社会運動の結果、貧困が社会不安になるのを恐れた権力者が「救民制度」や「社会保険制度」などの「公助」を作り出していきますが、対象者は厳しい審査を受け、社会のお世話にすがらねばならない立場に陥った自分を強烈に意識させられました。

 「公助にたよるのは能力のない人」という意識は広く社会に定着し、市民のみならず福祉に従事する専門職においても例外ではなかったと思います。

 その後、社会的支援の重要性を訴え、国に「公助」の拡充を求めた社会運動によって様々な福祉制度が実現してきました。福祉は「サービス」として捉えられ、それを受けるのは「本人の権利」として位置づけられ、必要とみられる福祉サービスを提供する事業者が次々と福祉事業に参入してきました。家族や近隣の友人も事業者に多くを委ね、「社会的支援」の世界が広がりました。

 ところが、福祉制度が充実していく中で、二つの問題が起きました。一つは、本人の判断力を無視したサービスの押し付けが横行したことです。判断能力の問題を抱えた人だけでなく、ともすれば社会的に弱い立場に陥りがちな本人が事業者に遠慮や依存をしてしまい、本来あるべき支援とは違う無用のサービスや虐待などの事態が多発しました。もう一つは、これまで家族や友人が支えていた本人との関係がサービスの導入によって断ち切られ、本人が地域の中で孤立してしまう傾向が強まったことです。

 社会福祉のあり方を考えるとき、制度の持続性などの効率性の議論があり、その延長線上で住民参加が語られることで「市民への丸投げ」批判が起こり、公的責任論へとつながっています。どちらの意見もわかるのですが、一番大切にすべきは「本人意思の尊重」で、社会福祉はあくまでその意思実現を支援するために機能すべき仕組みであるべきだとういうことです。

 本人には意思があるという大前提に立って、病気や障害、社会環境によって意思をまとめたり表現することに困難が生じている現実を直視すること。意思形成や表現に弊害となっているものを取り除き本人自身の意思が尊重される環境を整えることが社会福祉に携わる専門職の仕事でなければなりません。

 地域包括ケアも「我が事丸ごと」の地域共生社会も、本人の意思を地域で実現するためのものであり、本人中心の個別支援方策があって初めて成り立つものです。地域福祉の推進は、しっかりとしたケースワークを前提に、本人の住む身近な地域で、本人と本人にかかわる人々による協働の場を作ることから始まると思います。